先日、日本経済新聞で、政治思想史を研究する片山杜秀・慶應義塾大学教授のインタビューを読んだ。
見出しは、「いまの日本に『保守』はない」。
現在の政治家や政党を「保守」「リベラル」に分類する話ではなく、そもそも保守とは何なのか、というところまで降りて考えている記事だった。
その中で、片山氏は保守について、こう表現している。
「保守は『保ち守る』。」
それまでやってきたことを踏み固め、次へつないでいく。さらに片山氏は、保守思想にはそれ自体の実体があるわけではなく、フランス革命へのアンチテーゼとして生まれた、つまり革新があって初めて保守も生まれるのだと説明する。
なるほど、と思った。
同時に、ひとつ引っかかった。
では、何を「やってきたこと」と考えるのだろう。
言い換えれば、
その「伝統」は、いつからの伝統なのだろう。
明治政府は「伝統」を壊している
たとえば神道について考えてみる。
いま「日本の伝統」という言葉から神社や神道を連想することに、それほど違和感はない。
けれども、明治以前の日本では、神と仏は現在ほど明確に分かれていなかった。
神社の境内に寺があり、神を仏と結びつけて理解し、僧侶が神社に関わる。いわゆる神仏習合である。
明治初年の神仏分離政策によって、そうした長く共存してきた神と仏の関係は大きく変化する。
1868年以降、明治政府は神と仏を制度的に分離していく。その過程では各地で廃仏毀釈も起こった。
もちろん、そのすべてを明治政府が直接命令した、と単純化することはできない。
それでも、明治維新が日本の宗教環境に大きな断絶をもたらしたことは確かだ。
ここで少し妙なことになる。
「やってきたことを踏み固め、確実につなげていく」のが保守なら、長く続いた神仏習合を壊した明治政府は、むしろ伝統の破壊者ではないか。
考えてみれば、宗教だけではない。
廃藩置県によって藩をなくし、身分秩序を大きく組み替え、徴兵制を導入し、全国的な学校制度を整え、中央集権的な国家を作っていく。
「昔の日本を守った」というより、巨大な社会改造である。
では、なぜそこまで日本を作り替える必要があったのだろう。
国家を作るだけでは、国民国家にならない
19世紀、日本は欧米列強が作った国際秩序の中へ急速に組み込まれていった。
明治政府が直面していたのは、幕府に代わる新政府を作れば終わるという問題ではない。
近代国家として生き残らなければならなかった。
そして国民国家を作るには、政府や法律だけでは足りない。
その国家を「自分たちの国だ」と考える人間も、同時に作らなければならない。
国立歴史民俗博物館は、明治維新後、学校や軍隊を軸に人々を〈国民〉とする政策が行われ、その経験を通じて人々自身も〈国民〉を意識するようになっていったと説明している。
ここは少し注意が必要だ。
明治以前の人々に「日本」という認識がなかった、という話ではない。日本という国名も、日本人という意識も、それ以前から存在している。
しかし、藩や村、身分、家、地域といったさまざまな帰属を持っていた人々を、一つの中央集権国家を構成する「国民」として編成することは、それとは別の仕事だった。
学校。
軍隊。
地図。
歴史。
言葉。
祝祭。
天皇。
祭祀。
一つひとつを別々の政策として見ることもできる。
けれど横に並べると、別の姿が見えてくる。
明治政府は国家を作ると同時に、「日本国民」を作ろうとしていた。
「一身独立して一国独立す」
この時代に福澤諭吉がいたことも興味深い。
有名な「一身独立して一国独立す」は、いま読むと、自立した個人になろうという人生訓のようにも聞こえる。
しかし『文明論之概略』が刊行されたのは1875年。明治政府そのものがまだ成立して間もなく、欧米列強が東アジアへ進出していた時代である。
福澤にとって個人の独立と国家の独立は、別々の話ではなかった。
国家を独立させるには、その国家を構成する人間もまた、自立した主体にならなければならない。
明治政府と福澤が思い描いた「国民」が同じだったわけではない。
それでも、
国家を作るだけでは国家は完成しない。
その国家を支える人間も作らなければならない。
という問題を、当時の日本人がすでに考えていたことは分かる。
新しく作った「日本」が、伝統になる
明治政府が行ったことの多くは、その時点では新しかった。
新しい国家。新しい行政制度。新しい学校。新しい軍隊。そして、国家と宗教の新しい関係。
ところが、それらが数十年続く。
学校で教えられ、家庭で語られ、親から子へ受け継がれていく。
すると、最初は新しかったものが、次の世代には「昔からあるもの」に見えてくる。
革新によって作られたものが、時間によって伝統になる。
そして、その伝統を守ろうとする人が現れる。
そこで、それは「保守」になる。
時間軸をどこに置くかによって、保守と革新は入れ替わる。
明治維新を起点に見れば、明治政府は新しい日本を作った革新勢力である。
しかし、その明治国家が作ったものを基準にすれば、それを守ることが保守になる。
そして1945年、日本はもう一度、大きな断絶を経験する。
戦後80年も、もう「伝統」ではないか
敗戦後、日本の制度は再び大きく変わった。
日本国憲法、議会制民主主義、基本的人権、象徴天皇制、政教分離。
当時の人々から見れば、大きな制度変更だった。
しかし、それから約80年が経った。
それなら戦後体制もまた、日本社会に長期間蓄積された制度ではないのだろうか。
ここで奇妙な反転が起こる。
「本来の日本を取り戻すために、戦後体制を根本から作り直す」
という主張は、守ろうとしている対象を見れば「保守」に見える。
しかし、80年近く続いた制度を大きく変更するという方法を見れば、かなり革新的でもある。
逆に、現在の制度に問題を感じながらも、
「長く運用されてきた制度には、自分たちがまだ理解していない機能もあるかもしれない。変えるなら慎重に変えよう」
と考えるなら、守っている対象が戦後に生まれた制度であっても、その態度はかなり保守的である。
片山氏は、かつては「共和国か天皇制か」「社会主義か資本主義か」という革新との対立があったからこそ、保守にも輪郭があったと語る。
しかし革新の選択肢がなくなった結果、保守も実体を失い、「いまの日本で保守主義はもうない」とまで言う。
その議論を読みながら、私は少し別のことを考えていた。
革新がなくなったから保守が分からなくなっただけなのだろうか。
そもそも、保守が守ろうとしている「日本」自体が、過去の革新の積み重ねでできているのではないか。
もう一度、バークに戻る
片山氏が保守の原点として挙げたのが、18世紀の英国の政治思想家エドマンド・バークだった。
バークはフランス革命を批判した。
それは単に「昔の方がよかった」と考えたからではない。
抽象的な原理から社会全体を一挙に設計し直そうとすることへの警戒があった。
社会は複雑で、長い時間をかけて形成された制度や慣習には、現在を生きる人間には見えていない理由や機能が含まれているかもしれない。
だから、問題があるからといって、社会を白紙に戻して理想的な制度を作り直すことには慎重であるべきだ。
そう考えると、保守は「昔に戻ること」とは少し違って見える。
江戸へ戻ることでもない。
明治へ戻ることでもない。
戦後体制を永久に固定することでもない。
むしろ、
現在の社会には、自分たちには完全には理解できない、過去からの蓄積がある。
そう考える態度なのかもしれない。
「保守」は、いつからの日本を守るのか
片山杜秀氏の「いまの日本に『保守』はない」という記事から考え始めた。
保守とは、それまでやってきたことを踏み固め、確実につないでいくことだという。
では、その「やってきたこと」とは、いつからなのだろう。
そう考えたら、神仏習合にたどり着いた。
そこから明治維新へ行き、近代国家へ行き、その国家を支える「国民」へ行った。
私たちが「日本の伝統」と呼んでいるものは、一枚岩ではない。
古代から続くものもある。
江戸時代に形成されたものもある。
明治国家によって再編されたものもある。
戦後に定着したものもある。
それらが折り重なって、現在の日本になっている。
だから「日本の伝統を守る」という言葉の前に、一つ聞かなければならない。
いつからの日本を守るのですか。
その「日本」そのものが歴史の中で何度も作り替えられてきたものだとしたら、保守とはいったい何を守る思想なのだろう。
まだ、きれいな答えは出ない。
ただ、一つだけ以前よりしっくりくる考え方がある。
保守とは、過去に正解があると信じる思想ではない。
自分たちだけで正解を作れるとは限らない、と疑う思想なのかもしれない。



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